2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。

川崎医科大学学報第98号 新任教授の挨拶より     2003. early summer

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   あれは新幹線が岡山まで延びた4月,岡山駅前には,高島屋さんもなく地下街(一番街さん)もなく,倉敷駅前のバスステーションはトタン屋根の(云ってはいけないのかも知れないけれど)ちょっとみすぼらしい感じだった頃,私は丹波の山里から(郷里出身の著名人は,第47代内閣総理大臣の芦田均氏と初代「モー娘。」リーダー中澤裕子),倉敷市の北の外れ生坂の地に,川崎医科大学附属高等学校第3期生として初めてこの地に足を踏み入れました(勿論,入試には来てたけど)。高3の時の本学の大学祭は(まだ学園祭ではなかった),なんと「荒井由美」と「上田正樹」のコンサートということで,必死で聴きにいって(進学意欲を高められた?),翌年,第6期生として本学の学生となりました。高校入学時に小遣いの送金用に開設した中国銀行の普通預金口座(緑色の表紙の5 cm X 12 cm 位の縦長の通帳でした)はそのまま今も私の給料の振り込み用の口座となっております。卆後も(深く考えた訳でもなく,ましてやその頃の彼女が在学中だったなんてことは理由でなく)本学附属病院の内科でお世話になり,そして倉敷生活のべ31年を経たこの春に,望月元学長,植木絢子前教授が築き上げられてこられました川崎医科大学衛生学の教授に昇任させていただくこととなりました。本学園生粋の私が,応用医学/社会医学系の教授職の責務を担えるのかどうか,私自身が今もって不安で仕方ない処でもあります。

   学府に籍を置く身で,ましてや基礎系の教室に居るならば,研究職として世界に伍して自らのあるいは自らの教室の成果を発信していくことが何よりも大切であろうこと,加えて(私自身はどこかで途に迷ったようでもあるのですが),医師の子弟が多く在籍し,あるいは後継者育成という側面も踏まえた上での教育機関としての本学において,国試合格はもとより良医を育成するという卆前卆後教育に課せられた使命もまた全うしなければならない。このような重責を私の痩せた(BMI=19.2)肩は担い切れるのだろうか。生粋であればこそ,私は本学のコンセンサスに否応なく染まっているのであろうけれど,そのコンセンサスは本当に国際的なそれに内包されるのであろうか。耳触りの良いオリジナリティとは,あるいはデフェクトでしかなかったりすることも充分考えられる。卆業生であったり,卆後研修を行ってきたことを,ポジティヴにエヴァリュエイトしてほしいと願ってしまうなんてことは,未成熟な甘えでしかないであろうし,穏やかな山陽路の気候(日々の生活をする上では本当に良いところですが)のように,争いではない競合をも為し得ないことは,自らの仕事に対する脆弱性でしかないであろう。自らの立脚点を,そして日々の学究生活を,ユニバーサルな視点から俯瞰しつつ,眼前の細かな事象(実験の失敗や授業で語る一言や学生との触れ合いや共同研究者の方々との詳細な討論など)に対して,誠心誠意そして一所懸命,全精力を傾けることを今後とも実践していけなければ,私は混沌の中で方向さえ見失い,徒に自らのアポトーシスを待つしかなくなるのであろう。

   迷った筈の途であっても心から喜んでくれた両親,時間の共有が少ない分だけ寄せ合う気持ちを大切にしてくれる家族,そしてこれまでにご厚情を賜った諸先生方(昨年ご逝去された歳森元付属高校長,大学の小グループでお世話になった池田,荒川教授,卆後の内科研修所属長の八幡教授,大学院の実技指導をくださった難波前岡大医学部長,仕事への目を開いてくださった東大医科研浅野教授,留学後の仕事の方向性を導いてくださった植木絢子前衛生学教授,現在の仕事の視点を示唆してくださっている阪大環境医学森本教授,等々)への感謝を胸に,昇進させていただきましたこの機会に自らの気持ちをリセットして,衛生学教室(今は教員3人の小さな所帯でありますが)の研究(現在は「環境物質による自己免疫異常発症機転の解明」と「骨髄腫細胞をモデルとした悪性細胞の発生・進展機序に関わる因子の抽出」を行っております)の礎を確固たるものとすべく,若輩微力ではありますが,額に汗して努力していこうと思っております。学内の皆様には,今後と
も一層のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。